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「大田区の中小企業の技術力を集結するとロケットだってできると聞いたことがあるんだけど、本当だろうか」
そのとき私が口にしたのは単なる思いつきに近かった。「もし本当なら、大田区の小さな会社の力で大型ロケットを飛ばすという話も可能なんじゃないか」
それはおもしろいというので、早速、確かめてみようということになり、担当編集者があれこれとツテを頼って、大田区内の某社を尋ね、お話を伺うこととなった。
快く取材に応じて頂いたのは、宇宙関連事業に製品を納品しているという研究開発型の中小企業だ。ロケット開発の現場にも通暁し、手っ取り早く、私の妄想に近い思いつきの実現可能性を探るにはちょうどいい。
ところが、お会いした社長さんは、私の話を黙ってきいた後、あっさりと、
「大型ロケットを大田区の会社だけで作るなんて、無理ですよ」
そう一蹴された。
「絶対に、無理ですか。可能性はないんでしょうか」
食い下がる私に、「ええ、絶対に無理です」、ときっぱり。
やれやれ、無駄足になってしまった。まだ淹れていただいたお茶にも手を付けないうちの、ダメ出しだ。
ところが、そのとき小説の神様が味方してくれたと思うのは、「では、大田区の会社がロケットエンジンのキーデバイスの特許を持っていたら、どうでしょうか」、という新たな質問を口にできたことだ。
「ああ、それなら現実にもありそうな話ですね」と社長さん。
かくして――町工場のバルブシステムが、大企業の製造する大型ロケットエンジンに搭載されるまでの戦いを描く物語が誕生することになった。それが、『下町ロケット』である。
ところで、拙著やドラマをご覧になった方はご存じかも知れないが、この小説の前半部分のヤマ場は、ナカシマ工業との特許訴訟である。
ここは書いていて難しかった。いや、難しいというより、書けなかった。
私は知財の専門家ではないし、さして詳しいわけでもない。とても知財を争う裁判シーンなど書くのは無理だ。だが、書かなければストーリーが進まない。
そんな私の窮地を救ってくれたのは、友人でもある内田・鮫島法律事務所の鮫島正洋弁護士だ。
作中に登場し、主人公の経営する佃製作所を窮地から救う知財のエキスパート、神谷弁護士のモデルである。
忙しい鮫島さんは私のためにわざわざ時間を割いてくれ、特許のなんたるかを即席で説明してくれた。鮫島さんの、コップやエンピツを例にとった説明は実にわかりやすく、そのまま小説の中に使わせてもらうことにした。
特許について詳しくない読者でも(いや、そういう読者が大半なのだが)、それを読めば「ああ、そういうことか」と肚に落ちる。
難しい言葉で説明するのは簡単だ。だが、誰にでもわかる言葉で、わかりやすく本質を突いた説明は、誰にでもできることではない。
そうやって書き上げた小説は、翌年の直木賞を受賞するという、望外の展開になった。
話題になって、多くの読者を獲得したのは作者として喜ばしい限りだが、一方で、困ったことも起きた。
知財関係の講演をしてくれないかという依頼が頻繁に舞い込むようになったのである。オファーのメールには、たとえば、「知財関係者二百人の前で、知財に関するご講演を」なんて書いてある。
冗談じゃない。聴衆である知財関係者の誰よりも知財に詳しくないのに、なんで講演なんかできるものか。
困り果てた私は、そこでも鮫島さんの力を借りることにした。神谷弁護士のモデルとして私の代わりに講演等々をお願いし、私はひたすら鮫島さんの陰に隠れることにしたのである。
それから五年。このたび『下町ロケット』の続編を上梓した。
これにも神谷弁護士がいいところで登場するので期待していただきたい。
『下町ロケット』のような小説を書いていて思うのは、開発型企業にとって、知財と経営は切っても切れない関係にあるということだ。そうした会社にとって必要なのは、佃製作所における神谷弁護士のような味方ではないか。たとえ会社は小さくても、技術と情熱はある――。そんな彼らに温かい手を差し伸べ、パートナーとして将来を切り拓いていく人材がいま、強く求められている。
池井戸 潤 作家
1963年岐阜県生まれ。慶應義塾大学卒。『果つる底なき』で江戸川乱歩賞、『鉄の骨』で吉川英治文学新人賞、『下町ロケット』で直木賞を受賞。
主な作品に、半沢直樹シリーズ『オレたちバブル入行組』『オレたち花のバブル組』『ロスジェネの逆襲』『銀翼のイカロス』、花咲舞シリーズ『不祥事』『銀行総務特命』、『ルーズヴェルト・ゲーム』『空飛ぶタイヤ』『七つの会議』『民王』がある。最新刊は『下町ロケット2 ガウディ計画』。
『IPマネジメントレビュー』19号(2015年12月1日発行)
巻頭言
『下町ロケット』と知財
作家 池井戸 潤
馴染みのヤキトリ屋で、酒を呑みながら版元の担当編集者と新作の打ち合わせをしていたのは、かれこれ八年も前のことになる。「大田区の中小企業の技術力を集結するとロケットだってできると聞いたことがあるんだけど、本当だろうか」
そのとき私が口にしたのは単なる思いつきに近かった。「もし本当なら、大田区の小さな会社の力で大型ロケットを飛ばすという話も可能なんじゃないか」
それはおもしろいというので、早速、確かめてみようということになり、担当編集者があれこれとツテを頼って、大田区内の某社を尋ね、お話を伺うこととなった。
快く取材に応じて頂いたのは、宇宙関連事業に製品を納品しているという研究開発型の中小企業だ。ロケット開発の現場にも通暁し、手っ取り早く、私の妄想に近い思いつきの実現可能性を探るにはちょうどいい。
ところが、お会いした社長さんは、私の話を黙ってきいた後、あっさりと、
「大型ロケットを大田区の会社だけで作るなんて、無理ですよ」
そう一蹴された。
「絶対に、無理ですか。可能性はないんでしょうか」
食い下がる私に、「ええ、絶対に無理です」、ときっぱり。
やれやれ、無駄足になってしまった。まだ淹れていただいたお茶にも手を付けないうちの、ダメ出しだ。
ところが、そのとき小説の神様が味方してくれたと思うのは、「では、大田区の会社がロケットエンジンのキーデバイスの特許を持っていたら、どうでしょうか」、という新たな質問を口にできたことだ。
「ああ、それなら現実にもありそうな話ですね」と社長さん。
かくして――町工場のバルブシステムが、大企業の製造する大型ロケットエンジンに搭載されるまでの戦いを描く物語が誕生することになった。それが、『下町ロケット』である。
ところで、拙著やドラマをご覧になった方はご存じかも知れないが、この小説の前半部分のヤマ場は、ナカシマ工業との特許訴訟である。
ここは書いていて難しかった。いや、難しいというより、書けなかった。
私は知財の専門家ではないし、さして詳しいわけでもない。とても知財を争う裁判シーンなど書くのは無理だ。だが、書かなければストーリーが進まない。
そんな私の窮地を救ってくれたのは、友人でもある内田・鮫島法律事務所の鮫島正洋弁護士だ。
作中に登場し、主人公の経営する佃製作所を窮地から救う知財のエキスパート、神谷弁護士のモデルである。
忙しい鮫島さんは私のためにわざわざ時間を割いてくれ、特許のなんたるかを即席で説明してくれた。鮫島さんの、コップやエンピツを例にとった説明は実にわかりやすく、そのまま小説の中に使わせてもらうことにした。
特許について詳しくない読者でも(いや、そういう読者が大半なのだが)、それを読めば「ああ、そういうことか」と肚に落ちる。
難しい言葉で説明するのは簡単だ。だが、誰にでもわかる言葉で、わかりやすく本質を突いた説明は、誰にでもできることではない。
そうやって書き上げた小説は、翌年の直木賞を受賞するという、望外の展開になった。
話題になって、多くの読者を獲得したのは作者として喜ばしい限りだが、一方で、困ったことも起きた。
知財関係の講演をしてくれないかという依頼が頻繁に舞い込むようになったのである。オファーのメールには、たとえば、「知財関係者二百人の前で、知財に関するご講演を」なんて書いてある。
冗談じゃない。聴衆である知財関係者の誰よりも知財に詳しくないのに、なんで講演なんかできるものか。
困り果てた私は、そこでも鮫島さんの力を借りることにした。神谷弁護士のモデルとして私の代わりに講演等々をお願いし、私はひたすら鮫島さんの陰に隠れることにしたのである。
それから五年。このたび『下町ロケット』の続編を上梓した。
これにも神谷弁護士がいいところで登場するので期待していただきたい。
『下町ロケット』のような小説を書いていて思うのは、開発型企業にとって、知財と経営は切っても切れない関係にあるということだ。そうした会社にとって必要なのは、佃製作所における神谷弁護士のような味方ではないか。たとえ会社は小さくても、技術と情熱はある――。そんな彼らに温かい手を差し伸べ、パートナーとして将来を切り拓いていく人材がいま、強く求められている。
池井戸 潤 作家
1963年岐阜県生まれ。慶應義塾大学卒。『果つる底なき』で江戸川乱歩賞、『鉄の骨』で吉川英治文学新人賞、『下町ロケット』で直木賞を受賞。
主な作品に、半沢直樹シリーズ『オレたちバブル入行組』『オレたち花のバブル組』『ロスジェネの逆襲』『銀翼のイカロス』、花咲舞シリーズ『不祥事』『銀行総務特命』、『ルーズヴェルト・ゲーム』『空飛ぶタイヤ』『七つの会議』『民王』がある。最新刊は『下町ロケット2 ガウディ計画』。
掲載誌![]() 『IPマネジメントレビュー』 19号
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